4丁目の夕日

第1話 頑固ばあちゃん

名は、寛子。カン子と読む。七十四才。
時折、家の中へ台風をまき起こす。一度言い出したらきかない。
父ですら苦笑いして、カン子おばあちゃんではなく、ガンコおばあちゃんだと手こずる。 無理もない。
筋がピンと通っていて、若い者にはとても太刀打ちができない。
幸子は、このガンコおばあちゃんは苦手だ。 子供の時には、食事の作法が悪いと叱られ、持ち方が悪いと箸をたたき落とさされた。
うっかり足を投げ出して、あざを作ったことも多い。 しつけだけなら、まだ我慢できる。
小学校の時、母の都合が悪くておばあちゃんが代理で、参観日に出席した時のことだ。
「先生、そりゃウソじゃ。うちの幸子はそんなに良い子じゃありませんぞ」
全くガンコにも程がある。孫がほめられているのに、参観席から異議を申し立てたのは、おばあちゃんだけだ。
これ以来おばあちゃんの代理席は差し止めとなった。 幸子が年頃になった。
しかし、おばあちゃんのおかげで、折角の見合いが五つもこわれた。
「外ヅラばかり見るな。」
容姿はもちろん、学歴・財産・家柄などみんな外ヅラで本人には関係ないと、おばあちゃんは言う。
家での見合いは、必ずおばあちゃんが現れてぶちこわす。
外での見合いも、その後の交際の時に、おばあちゃんに徹底的にしごかれた相手から、やがて断りがくる。
「おばあちゃんのいるうちは、結婚できないわ」
母が、涙ぐみながら言う。
「いや、おばあちゃんの言う事も一理あるさ、家柄などを第一に考えるのは、間違いかもしれん。 幸子、おばあちゃんのめがねに叶った人を連れてきなさい。」
やがて父のいう通りになった。 だがあまりにも、もっさりした彼を紹介しることさえ、気後れがした。
案の定、母が風彩の上がらない男だとしぶった。
「幸子や、彼の短所が言えるかい」
「無口、バカ正直、だから時によりガンコ」
おばあちゃんは、幸子の顔をのぞき込みながら、大きくうなずいた。
おばあちゃんは、一生懸命に父と母を説いた。
「彼に、幸子を幸せにさせる自信があるかと聞いたら『分りません、しかし一生懸命に努力します』といったよ。正直でいい男だよ。」
おばあちゃんの頑固さが幸子の恋を実らせた。 結婚式前日、おばあちゃんは幸子を呼んだ。
「若い者のガンコは、ひとりよがりで頭が固いのだよ。 彼をガンコにさせないにはお前の腕だよ。」
おばあちゃんは、モゾモゾと古ぼけた貯金通帳を取り出て言った。
「お前が生まれた日から毎日十円ずる貯金したんじゃ。 もっともここ十年は、百円に値上げしたがのう。 途中でずい分手をつけたいと思ったこともあったが、お前の結婚式まではと思ってのう。 ガンコにも取り柄はあったわい。さ、これはお前が素直に育ってくれたお礼じゃ。」
おばあちゃんが無理に押し付けた幸子名義の通帳に、幸子は涙ぐみながら、胸の中でつぶやいた。
「このお金いただけないわ、でも子どもが生まれたら、この続きをやらせていただくわ。 わたしも、おばあちゃんのガンコを見習って・・・。」
有沢 二夫 著

第2話 あったかいめし

母は、また時計を見る。毎晩の習慣なのだ。また肩を落として内職を続ける。
「あんな子ではなかった」
ぐちは言うまいとおもいながらも、心の底に沈んだものが独り言となって口にでる。
子どもの成長期に、大切な思春期に父親がいなかったからだろうか。
母と二人きりではどうしても親も子も、親子離れができにくいのか。
欲しいものも与えることのできなかった貧しさが、万引きに走らせたのだろうか。
中学二年ぐらいから、みるみる成績が落ち、友達が変わり、目つきまで変わった。
落ち着きと生気がなくなり外出が多くなった。そんな時、母は学校へ呼び出された。
「問題児・非行少年」
先生の忌まわしいことばを、何度も口の中で噛み潰したが、ひざの震えはいつまでも止まらなかった。
涙声の母の叱責に、息子は横を向いたまま何も言わなかった。(父がいてくれたら・・・・)
の思いが、初めて息子の頬を叩いた。息子は、白い眼で母を見ると、せせら笑って言えを出て一晩中帰らなかった。
母は、一晩中泣き明かした。
遠くへ飛んで行ってしまいそうなわが子の心に耐えられなかった。
そして、遠い日の家族三人の写真を見ては泣いた。
「なぜ・・・・どうしたらよいか、教えて・・・」
夫の写真に呼びかけるが、その写真は笑ったままで、幼い息子も無邪気に笑っている。
「この頃のあの子は、こんなに可愛い素直なこだったのに・・・」
とめどなく涙が流れた。老後を、夢みる妥算的な気持ちではない。一心に働くことが子どもに教えてやれるただ一つのことだと、
真っ黒になってなりふり構わず女手ひとつでやってきたのに・・・・。今はただ、じっと見ているより仕方がなかった。
子どもの心を読み取れぬ自分の、考えてやれなかった自分の責任なのであろう。
家の生活に追われて、わが子の心を抱いてやることができなかったのだろうか。
悪いと知りながら非行にのめり込んでいく、そのわが子の心をつかまねばならぬと思った。
わが子を変えるためには、母が変わらねばと思いながら、どうしてよいかもどかしさになやんだ。母が数年間、ただひたすらに毎晩待った。
いつ帰ってもよいように、幼い頃からすきだったものを用意しては、ひたすらに待った。手をつけられることは少なかったが、
母はぐちひとつこぼさなかった。
わが子を取り戻すためには、母の心を取り戻すほかないと思った。
その日。その日も息子は酔って帰ってきた。母はいつものように笑顔で、息子ひとりの遅い夕食の介添えをした。
「また、クビだ、退職金は半分使ったぜ」
はじめて母にくれたわずかなお金。
「母さん、オレ、出直しだ」
ポツンと息子が言った。
「毎晩、帰るがどうかも分からないのに、温かいめしを用意してくれるのを見て、本当に悪かったと思った、やり直しさ。母さん」
胸がつかえた母は、仏壇に向かうと、何度も夫に呼びかけるのであった。
有沢 二夫 著

第3話 先生の年賀状

「お母さん、年賀状きた?」
三学期もはじまり一月十日だというのに、洋一はきまって聞く。
自分で郵便受けを確かめると、ガッカリしてつぶやく。
「桜井先生、もうボクのことを忘れてしまったのかなぁ」
桜井先生
洋一が三年生の時に受け持ってもらった先生だ。しかしたった一年間だけで郷里の広島県の小さな島に結婚のため帰ってしまった。
だが、その一年間で洋一は、見違えるほど少年らしい明るさとたくましさを持った。
「ボク、桜井先生大好き」
一年間、幾度となく言い続けた。それはただ若さだけの魅力ではないらしい。
毎週、「学級だより」を家庭に送ってもくれたし、洋一が一日でも学校を休むと、必ずその日のうちに様子を見て来てくれた。
寝ている洋一の額をチョンと突いて、
「コラ、弱虫、だから先生にまだすもうが勝てないのよ」と言った。
「女先生のくせに、男の子ともすもうをとったりするのか」
半ば、あきれ顔に聞く父に、洋一は得意そうに言った。
「うん、まだ、だれも勝てないんだよ。お父さんと同じくらい強いよ。」
誕生日には、きれいなカードを入れた手紙がきた。洋一は、その晩そのカードを抱いて寝た。
洋一の話では、クラスの子ども全員にそうしているとのことである。
「うちなどは、子どもから請求されて誕生日を思い出すのに・・・」
「うちの子は、先生からの手紙を宝物って言うのよ」
参観日に、母親たちがささやいていた。
子どもは、通知票やノートの採点よりも、評価に関係のない先生のことばや、やさしさがひどくうれしいものらしい。
子どもとは、元来おとなよりも自尊心が強いものらしい。
その、先生から年賀状が、今年はまだ来ない。
「去年もくれたのだから、絶対にくる」
(だって遠く離れて二年もたったのだから、もう来ないかもしれない)とは、母は言えない。
洋一が、あまりに本気だからだ。年賀状だって三〇分以上もかけて書いた。去年の先生の年賀状は、アルバムに宝物のように
貼ってある。
(ひどい)
あんなに、子どもの心をつかんでおきながら・・・母親は、落胆のあまり口数の少なくなった洋一を思い、
先生に恨みがましくさえ思えるのだった。
「おかあさん、きた、桜井先生の年賀状!」
次の日だ。
学校から帰って郵便受けをのぞいた洋一は、飛び上がるようにして家へ入るなり、かばんを放り出した。
「先生は、赤ちゃんが生まれて、年賀状遅れたんだって・・・」
「先生、あいがとう」
洋一の弾む声を聞きながら、母はうれしくつぶやいた。  
有沢 二夫 著

第4話 自転車

「おかあちゃん、しっかり、思い切ってしっかり踏むんだよ」
栄一の声がした時、自転車は大きく右へ傾いて敏子は、また土の上へ放り出された。
「おかあちゃん、痛かった?」
「ダ・イ・ジョウブ」
息を弾ませて駆け寄り、覗き込む息子へわざと作った笑顔が、ともすれば崩れそうになる。
いつ作った擦り傷なのだろうか、右っての掌には血がにじんで、スラックスの両膝が泥だらけでジンジンと痛む。
「だいぶん暗くなったよ、おかあちゃん」
「でも栄一、もうすこし・・・」「うん、ハンドルは強く持っちゃだめだよ。ボクが手を離したら一生懸命に踏むんだよ」
いつか同じようなことを、夫に言われた記憶がある。
ちょうど去年の桜が散る頃、この運動場で栄一と敏子は夫から自転車乗りを教えてもらったのだった。
それは、夕やみに散りゆく桜を賞でながらの、さざめきたわむれる家族の楽しい一コマだったのだが、それから数日後、自転車でちょっと近所へ出かけた夫は、呆気なく交通事故で命をなくし、その自転車だけが、まるでうそのように殆ど無傷で返ってきた・・・。
「おかあちゃん、手を離すよ」
我に返った敏子は、思わずハンドルに力を入れる。一昨日のことだ。
祈るような気持ちで、小さな会社の半ば雑役夫のような仕事の面接を受けた。
「バイクの免許はあるのかね、まあそれは後でいいとして、自転車には乗れるね」
「ハイ」
思わず答えてしまった。何でもよかった。
夫の一周忌を機会に、思いきり働いてみたかった。それが小学生の四年生になった栄一のためにもなると思っていた。
「おかあちゃん、もう桜も散ってなくなってしまったね」
ハンドルを握っている敏子の指に、栄一が手を重ねてくる。
「去年は、ボクがここで、お父さんに自転車の乗り方を教えてもらったんだったね」
「栄一、さあ、力いっぱいに押して・・・・」
敏子は、何かを振り切るように、わが子をうながした。擦り傷からさえ、新しいものが拡がっていくように思えた。
「おかあちゃん、だめだよ、もっと思い切って踏んで・・・」
「おかあちゃん、いいぞ、その調子、ハンドルを軽く、うんと踏んで、うんと・・・」
夫の残した自転車を力いっぱい踏む敏子の耳には、夫の声と栄一の声がダブって桜並木の方から聞こえてくるように思えるのだった。
「コラ、良治、そこでしっかり踏むんだ、フラフラしたら踏むんだ」
「ハンドルは軽く、強く持っちゃだめだ、ソラまた・・・・」
「パパより、おばあちゃんに習うよ、おばあちゃんの方がやさしくて、上手だい」
敏子は、孫の声にうながされて、サドルを押さえる。
栄一が、笑っている。
あれから三十年近い。敏子、年齢七〇歳。
有沢 二夫 著

第5話 サーカスの子

その子、マユミ。
転校した小学校の分は忘れたが、たぶん二百回くらいと笑う。 中学校でも二年生の現在まで実に転校暦六十余回。
在籍期間だけを証明した多くの学校印が彼女の学校生活のすべてである。
その分厚い大学ノートだけをかかえて、マユミは転校してきた。
「習わないところはたくさん。同じ所を七回やったこともあるわ」
「うち、年が足らんやさかい、まだサーカスには出られんのや」
時によって関西弁になったり共通語になったりするその子は、屈託なく笑った。
両親にいるサーカス団は、この小都市の秋祭りを中心に一週間小屋を張る。
その一週間がマユミのここの学校生活のすべてなのだ。
頭は冴えていた。
K先生の担当する国語には、ハッとさせられる鋭さを持っていたが、 系統的な教科の数学・英語は全く弱い。
(可愛そうに、適当な里親でもあれば、ちゃんと学校に通えるのに・・・) 子どものいないK先生は思う。
K先生の気惧をよそに、マユミは物珍し気に集った男女生徒に囲まれて、 「きっと、サーカス見に来てね」と、はなやいでいる。
四日経った。学級の会計係が、血相変えてK先生に訴えた。
「集金したばかりの学級費がなくなりました。」 今まで、一度もこれに類する信頼を裏切ったことのない学級である。
暗然とK先生は天をあおいだ。
「心当たりはありません。けど、あのひと・・・」
会計係は、したり顔で眸を動かした。K先生はあわてて、それを手で制した。
考え込んでいるK先生の所へ、会計係は、2~3人に級友を連れてまた戻ってきた。
「あの人が、教室からひとりで出るのを見たんです」
「サーカスのこは、お金に困っているんです。」
たとえ一週間でも机を並べるクラスメートなのに、「あの人」としか呼べず「サーカスの子」という 小賢しい教え児達をK先生は、かなしいと思った。
「なーに?先生。うち今まで通った学校の中で、先生が一番好きやわ」
マユミは、おとなと子どもの入り交じった眉に似た目でK先生を見つめた。
「友達は、できたのか。ご両親は、よく面倒をみてくれるのか。お小遣いはもらえるのか。」
相談室の中で、K先生とマユミは向かい合っていた。
「うん、楽しいわ。でもサーカスの子って、意地悪されることもあるけど・・・」 きれいな眸だ。
小さな花びらに似た唇にうそはないと思いたかった。
二日後。 マユミは、また分厚いノートだけをかかえて去って行った。
K先生の机に上には、紛失したといわれる学級費がそのまま乗っていた。
「ごめんなさい先生。学級費をかくしたら、きっと先生と二人だけでお話ができると思ったの。きっとまた来ます。さようなら大好きな先生」
K先生は、いつまでもその字を見つめていた。
有沢 二夫 著

第6話 破れた記念切手

「アッ!」 公次が、大急ぎで飛び出そうとした時、入ってきたばかりの女の子に突き当たって、思わず息をのんだ。
その女の子の胸に抱かれた白い封筒から、パラパラと沢山に硬貨が飛び出して転がった。
やっとの思いで買った、10枚の記念切手に喜び勇んだ公次は、振向きざまに、駆け出そうとしたのだった。
立ちすくんで白い封筒の破れを押さえているその女の子のセーラー服には、公次と同じ中学校の校章が浮いていた。
「なんだ、危ないじゃないか。ぼんやりするな」
非は自分にあると知ってはいたが、その子が下級生だと分かると、 急に安堵感が盛り上がって、公次は続けた。
「見ろ、せっかくの記念切手。こんなに破れてしまったじゃないか、気をつけろ」
やっとの思い・・・それはマニアでなければ分からない。
切手ブックだって自慢してみんなに見せたいが絶対に門外不出だし、一枚一枚まるで原子核でも扱うように ピンセットで息を凝らしながら貼っていくのが、物の見事に数枚くしゃくしゃになっていた。
テストの期間中だというのに、母の愚痴を背に飛び出してきたのだ。
切手代だって小遣いの半分を出費しているのに・・・公次は、自分の軽率よりも、そこにいた女の子に腹が立ってきた。
目の前に突き出された切手と、公次の見幕を等分に見ていた女の子の瞳は、みるみる赤くうるんだ。
そして、つとかがみ込んで散らばった硬貨を拾いはじめ、ポツリと言った。
「ごめんなさい」
ほとんど聞き取れないぐらいの細い声である。
スカートで封筒の破れを押さえながら、一枚ずつ拾っては丁寧に土を拭いていた。
硬貨は一円アルミ貨が多い。それでも中には五円、五十円硬貨と交じっている。
女の子の小さな肩は、いつまでもふるえていた。
「おい、ここにも転がってらあ」
公次は、泥で汚れた指先に何枚かのアルミ貨を渡してやりながら、わざとぞんざいな口をきくのだった。
「おい、何だこの小銭、一円や五円ばっかりどうしだんだ」
おそらく全部あわせても全円ぐらいしかないと思われたが、女の子は何も答えなかった。
しかしやっと小さな笑みで公次にこたえてくれた。
公次が、机の下から最後の一枚を拾い上げた時、その女の子は一心に硬貨を数えていた。
そのそばに、しわを丁寧に伸ばされた白い封筒が、破れた腹を見せていた。
「・・・アフリカ難民の皆さんへ」こんな字が一瞬に見えた。
女の子は、それに気づくとあわててその字をかくして、照れたようにニコッと微笑んで、また軽くえしゃくした。
その皓い歯が、公次にはまぶしく映った。
公次は、手にしていた記念切手を二枚、いぶかる女の子に押し付けて、郵便局を飛び出して行った。
「それに、この切手を使ってくれよな、さっきはゴメンよ」
女の子の細い指の感触はあたたかい。
有沢 二夫 著

第7話 作文の材料

うちのオヤジは、お酒が大好きだ。
「安月給のくせに・・・この物価高で家計は火の車だよ」
母が、わめく。
だから可哀そうに、父は家ではめったに飲ましてもらえない。
しかしボクは、飲んだオヤジは大好きだ。理由はただひとつ。
飲んだときは、お人好しがますますよくなって、飲んだ時ねだると何でもOKだからだ。
「お母さん、ボクの作文ほめられたよ」
「ほ、ほんとかい、題は何というの」
「ボクのおとうさん」
はじめての五重丸がついたボクの作文を、母はニコニコと読みはじめた。
「アンタ」
母が喜んだので、もしや今日は飲ましてもらえるかも知れないという期待で、うかがうようにしていたオヤジが
飛び上がったくらいの金切り声だ。
「こ、これを読んでごらんよ。ああ、うちは学校へも行けない」
「安月給で、毎日飲ましてもらえない父は、あわれです。この間のことです。やっと1本つけてもらって
大事そうに飲んでいる時、そこで引っかけて、ひっくり返してしまいました。僕が布巾で、ふいてやろうとしたら、
ものすごく怒りました。
父はあわてて、食卓の上や畳の上にこぼれたお酒を、チュウチュウと音をたててなめていました・・・」
母は、ボクにはで当り散らした。作文は、ありのままに素直に書けといったのは、母だったくせに・・・。
この間、三人で徳山へ行ったついでに食事をした。
もちろん安い大衆食堂だ。
中ではお酒を飲んでいる人もいた。
「あんた、どうしたの」
父は、出てきたラーメンには手をつけず、うらめしそうにまわりを見ている。
「あなた、一ぱい、一ぱいだけ特別に許可するわ」「あんた」が「あなた」に変わっている母の、いつもとちがうやさしい声。
やっぱり外食っていいなぁ。
「おやじ、コップ一ぱい」
コップが出て、あふれそうにつがれた。あれは、表面張力っていうんだな。酒がふくれ上がってる。
あっ、こぼれそう。またオヤジ、テーブルをなめるんじゃないかな。
心配したが、さずがオヤジ。コップに口を近づけた。のどが動いている。
その時、
「おっ、すんまへん。そいつはとりかえやしょう」
蝿だ、蝿が酒のコップに落ちてもがいている。
「じゃ、これ、ただかね」
代わりのコップに酒をつぎ、蝿の入ったコップをさげようとした腕を押さえてオヤジが聞いた
「仕方ありやせんや、客には出せやせん」
あーあ、オヤジ、ただと聞いて、蝿を捨てて飲む気だな。ああ、はずかしい。
ほら、隣の人が見て、笑っているじゃないか。
こう思った時、うちのオヤジ、もがいている蝿を、ゆっくり大切そうにつまみ上げた。
捨てると思いしや、それをもったいなさそうに、チュウチュウと、蝿についているしずくを吸って
ポイと捨て、やおら口をとがらせてコップへ口を近づけた。
あーあ、また作文の材料ができた。
有沢 二夫 著

第8話 ある日曜日

芳枝は、なぜかイライラする気持ちを抑えようがない。
昨日もそうだ。姪の結婚の贈り物を、あれこれと相談するのに、何を言っても
「ウン、うん、いいだろう」
と顔はテレビの方を向いたままだ。
「聞いているの、あなた」
思わず、甲高い声を出してしまった。
「意見を言ったって、どうせお前の思ったとおりにするんだろう」
いつもなら、そのままになってしまうのだが、最近読んだ雑誌が妙に頭に引っかかって仕方がない。
「戦後生まれの女性」とかいう顔で、30代後半から40代前半の女性の危機を書いた婦人雑誌だった。
37歳。そういえば目じりのカラスの足跡もごまかせぬようになって久しいし、
皮膚のたるみも妙に気になる。(もうすぐ40になる)
すっと寒くなるような、追われるような気持ちがそこにあった。
結婚して15年。高度経済成長の最中で、夫はただ働き通した。
この間、病弱だった夫の両親が相次いで死ぬと、ポッカリ家の中へ穴が空き、風が吹き抜けた。
「せめて、あの子でもいてくれたら・・・」
流産した性別も分からない子の年を数えては、自分を責める。
夫は、日曜日にはきまってゴロゴロしている。それが今日は、特にカンにさわる。
若い頃、血道をあげたスポーツも釣りも近頃はとんとやらなくなったし、碁や将棋は
どちらがというと嫌いで、マージャンもやらない。しかも不器用な方でよそのご主人のように
日曜大工のまねごともやれない。日曜毎にやれゴルフだ。ギャンブルだと家を
空けられるのも困りものだが、何かに、つかれたように熱中する夫の姿も忘れて遠くなってしまった。
毎日、きちんと出勤して定刻に帰る判を押したような生活が続く。
帰っても別に話題もない。芳枝の話を黙って聞き、うなずくだけである。
テレビを楽しむか、何か下調べをしているだけの平凡すぎる夫だけに、それがきょうは無性に腹が立つ。
他人は、
「平凡な幸せって最高じゃない、あんなりっぱなご主人に何の不足があるの」
というが、このまま夫と老い朽ちるだけなのかと思うとやりきれない。
夫が、ひじ枕でテレビをボンヤリと見ている。その姿が、きょうは特に情けない。
(邪魔だわ。掃除の時ぐらい気を使ってくれたっていいじゃないの)
ふと、見やった夫の髪に、光線の加減だろうか、何かキラリと光って見えた。
「アラ」ひざ枕でかかえ込んだ夫の髪には、芳枝の知らないうちに白いものがあった。
夫、すでに40歳。
高度経済成長の社会を支えて、ただひたすらに働いてきた夫も、もう若くはない。
「芳枝、ぼくもどうやら管理職になれそうだよ。まだ、はっきり言えんが、きのう内示らしきものがあった。
みんなお前のおかげだよ。」
ポツリと夫が言った。
有沢 二夫 著

第9話 また失恋

ああ、いやだ、イヤだ。オレの人生は真っ暗。
夢も希望もない。どうしてオレはこんなに女の子にもてないのだろう。
背は低くて頭でっかち胴長、短足。カッコよさなど、どこを探してもない。
頭でっかちのくせに中身はピーマン。英語や数学の時間になると教科性時限腹痛、
体育の時間は瞬間性小児マヒ、ほかの時間は、嗜(シ)眠性脳膜炎なんだ。
両親。年をとってからの子だからとごまかすが、そうではない。
この前、偶然にオヤジの小学校時代の通知表をみつけた。
「丙」こんな字がズラリ。オヤジは言った。
昔も今の5から1までと同じで、甲乙丙の「丙」は今の3なんだ。オレ、危うくオヤジを尊敬するところだった。
母に聞いて笑われた。
「カエルの子はオタマジャクシ、スズメがトンビを生みませんよ」
何やらさっぱり分からぬことを言ったが、要するに良くなかったということらしい。
「突然変異」理科の先生は言うが、現実はキビシイ。オレ、顔も頭も体型もすべて
メンデルの法則を忠実に守って生まれたらしい。
オット、自己紹介が遅れた。
オレ、花はツボミ、ニキビは盛りの中学三年。
現在15番目の初恋に夢中なんだ。
その女の子。桜田モモ恵そっくり。頭もグンバツ、それにテニスの選手。
白いテニスウェアからの長い足は、見ただけでオレ、コーフンのあまり貧血を起こしたほどだ。
そのくせ、とても優しくて、その辺のイモっ子とは段違い。
長い髪をかき上げながらテストを考えている姿など、
たそがれの芙蓉、濡れた海棠そっくりだ。
オレ、だから学校だけは、まじめに行く。先生が言った。
「お前に忍耐強いのには感心する。何も分からんのによう座っとるのう」
バカ言うな。オレの神様に近いこの気持ちが、中年男に分かってたまるか。
だが、オレの気持ち、一方通行にもならぬ。届かないのだ。
この間も辞書と首っ引で三日もかかって書いたラブレターを、間違えてスピーカーの
誉れ高いイモっ子の靴の中へ入れちまった。名前は書いていなかったが、
ニキビからまで冷や汗が吹き出るほど恥ずかしい思いをした。
ところが、神様がオレにチャンスをくれた。
この間のことだ。モモ恵ちゃんの顔 真っ青。
取り巻いている女の子に聞いたら腹が痛いというのだ。
オレ、女王様を守る騎士のような気持ちになって保健室にすっ飛んだ。
先生はいなかったがとりあえず最もよく効く下痢止めをつかんで教室へ戻った。
「保健の先生が、モモ恵ちゃんには、これだと言っていたよ」
モモ恵ちゃん、はじめてオレを感謝の眼差しで見つめ、微笑んでくれた。
バンザーイ、まるでその薬がダイヤモンドのようにオレには見えたのだ。
人生って、いいなあ。
だのにどうしたことが、それからモモ恵ちゃんの態度、
まるでオレにキビシイ。
知らなかったので、オレ、モモ恵ちゃんのベンピ。
有沢 二夫 著

第10話 こぼれたカレー

「あっ!」
「すみません、ゴメンなさい」
周囲がわいた。むしろこれからの成行を期待する野次馬の声である。
「いいんだよ、いいんだってば・・・」
ズボンのひざからももにかけてベッタリとカレー汁が濡れて光っている。
ドッとまた周囲がわいた。ハンカチを出して拭こうとした京子の手を振り払って、
またカレー汁の残りの入った食器がひっくり返った。
誠はズボンをたくしながら水道へ走った。その格好がおかしいと、
また学級がわいた。
京子は泣きたいのをその声に堪えた。
自分の席のカレー汁を誠の席へ運んだ。
誠の空の食器をさげ、机の上を幾度もふいた。泣きたい以上に自分に腹立たしかった。
ジャージに着替えた誠は、机の上のカレー汁を京子の席へ戻した。
「オレ、いいんだよ、君が悪いんじゃない。騒いだ俺が悪いんだ。」
「でも・・・お願い、食べて」
カレー汁の食器が、京子と誠の間を往復した。
「二人で半分ずつ食べりゃいいだろ」
担任の先生が笑いながら言った。
学級がまたわき返った。誠は、うつむいたまま、もう何も言わなかった。
食器は、手もつけられずにそのままになっていて、食事が終わると誠は、
カレー汁をそっくり食缶に移して、振り返りもせずに教室を出て行った。
京子は、何か分からない塊が、次から次へとのどから突き上げて、泣いた。
先日のことだ。
学級から割り当ての作業人員を出す時、みなが渋って司会の京子が立ち往生していると、
「ボクが出るよ」
彼の声に救われたのだった。
テストの時もそうだった。
あわてて筆箱を整理して、消しゴムを忘れて困っていると、
黙って自分の消しゴムを半分切って投げてくれた誠だった。
だのに・・・
京子は、今日の自分がむしょうに情けなかった。
いつの間にか、誠のロッカーの前に立っていた。
恐ろしい罪悪を犯すようにひざが鳴った。友達に知られたらと思うと胸が苦しくなった。
思い切って取っ手を引いた。
ガチャリと鳴った金属音に心が凍った。
カレーの匂いがした。
丸められて押し込んであった誠のズボンを取り出すと、それを自分のセーラー服の中に包み込んで走り出した。
三日たった。
いつの間にか、誠のロッカーの中には、きちんとアイロンのかけられたズボンが入っていた。
その間から小さな水色の封筒が落ちた。

水田君、先日のこと、皆の前でははずかしい思いをさせてすみません。
今まで親切にしていただいて、とてもうれしい想いでした。
・・・それなのにあんな粗相をして、ほんとうにゴメンなさい。・・・
なぜか、水田君は、大好きでした・・・    京子

それから一週間後に、父の転勤のために学校を去って行った。
有沢 二夫 著

第11話 お別れ遠足

「あっ、イタッ、ツ」
がけ道の斜面に見つけた花を手折ろうとした信吾は、足首をかかえて座り込んだ。
集まった仲間をかき分けてK先生が近寄ってきた。
「どうした? 何、うん、靴を脱いでみい」
「信吾、これは捻挫だな、動かすなよ。せっかくのクラスのお別れ遠足だし、もうここまで来たのだから連れ行こうや、なあ、みんな」
信吾の仲間と共に残ったK先生は、手早く水筒の水で足首に応急の湿布をすると、遠慮する信吾をむりに背負い込んだ。
もうその一団は、学年からすっかり取り残されていた。
信吾の仲間同士は、顔を見合わせた。
学習成績が良くないために、ともすれば褒められることの少ない彼等達であった。
気の弱いことは、堪えることのできない弱さと重なって、
この一年間とかく問題の多かった彼等であった。
「信吾、体重はいくらになった、なに、ちょうど50キロ、うんもうすぐ中学校最上級生になるんだからな」
説教じみたことは口にしなかった。湿った山陰の道を幾度かすべりながら、
それでもK先生は珍しく皆を笑わせながら歩いた。
瀬戸内の小島は、快晴のせいか、はや春がすみにおぼろで、はるかな空もかすんでいた。
「先生、もう歩けますよ、ボク思いから・・・」
仲間の生徒が代わろうとするのをK先生は制しながらこんなことを語り始めた。
「みんなは、古いなあと笑うかもしれないが、私は山道に来ると思い出すことがあるんだ。
昔、学生の途中で軍隊に行った時のことだ。当時私は谷底の陣地にいたんだが、足のけがに毒が入って丸太のように腫れ、
熱が出て全く動けずにいた。医者のいる大隊本部というのは、幾つかの谷を越えた3キロもある丘の上にあったのだから、
とてもけが人に二等兵などはかまってかまってもらえず、ただうなっていたのだ。
ところが、大隊本部までの命令受領に行くある軍曹が、毎日私を背負って二週間も山道を通ってくれたのだ。
当時、私は一番下の二等兵、階級制度のひどい軍隊では考えられないことだったが、
その学生出身の軍曹は、途中でこんな話もしてくれたよ。
『自由は、高山の空気に似ている。しれはどちらも弱い者には堪えられないからだ』と、芥川龍之介のことばを引例してね。
人間はどんな環境でも弱虫じゃだめだと教えれくれたのだが、いやなつらい軍隊に学校途中に引っ張り出され、けがをして弱くなっていた私にはうれしかったよ。
その軍曹の背にポツポツと汗のしみが広がっていくのを見ながら、私は涙ぐんでしまった。」
K先生は、時折立ち止まっては信吾をゆすりながら、ことばを続けるのだった。
こわい先生、信吾の仲間には特に煙たがられている苦手な先生。
そのK先生の体温が、はじめてあたたかく肌へしみ通ってくるようだった。
「先生、ぼく、先生の言いたいことがよく分かりますよ。もうすぐ三年、がんばります。
先生も三年を受け持って、また僕達を叱ってください。」
信吾は、K先生の背へ呼びかけたかった。
そして、肩越しに光るK先生の額の汗をふいてやろうと、モゾモゾとポケットのハンカチをまさぐるのだった。
有沢 二夫 著

第12話 おみやげ

「おにいちゃん、もうすぐ帰るね」
「コラ、おにいちゃんではなくて、おみやげをまっているんだろ、だめだぞ」
その健一が修学旅行から帰ってきた。
「ありがと、おにいちゃん」
弟と妹は、胸に抱いて、はしゃぎ廻る。
照れ笑いでそれを見ながら、健一がモゾモゾとカバンの中をさぐった。
ひとつひとつの反応をうれしく楽しんでいるようでもある。
「これ、お父さんとお母さん、うん、安物だけどお揃いだから・・・」
今まで、子ども達のはしゃぎに無関心を装い、見るでもないテレビと等分に見やっていた父の視線までが止まった。
母は、わが子の土産を包みも開けず、何度も押しいだいている。
健一心づかいのお揃いの夫婦湯呑である。母の湯呑に欠けキズがあることまで知っていたらしい。
「これは、おじいちゃんとおばあちゃんへ」聞けば、白南天の長寿箸だという。
数キロほど離れて住んでいる祖父母には、健一の修学旅行は知らせていない。
祖父母のことだ。わが孫、可愛い一心でまた気を使うだろうし、それが小遣いの規定をオーバーさせたり、
健一にみやげの心配をさせたくないと思ったからなのに・・・明日にでも叱られるのを覚悟で事後報告をしようと思ったが、
(これでまた明日のカミナリが大きくなるわ)
と思いながらも母の心は熱い。
白南天の長寿箸などと、年寄りをいたわる気持ちがいつ育ったかと喜びの心が熱い
「それから、いちごのお礼に、隣のおばさんにこれ、だっていつも心配してくれるんだもの」
修学旅行の前の日に、弁当の彩りにと隣家から貰ったいちごの色と、みやげの包装の赤い色とがダブって母には見えた。
今夜のうちにでも、息子の気持ちを伝えたいほど、身の心も軽い。
「バカが・・・少ない小遣いで、京・大阪へみやげを買いに行ったのか・・・」
ことばとは裏腹に、父の表情が崩れている。
旅行の朝、出発が早いのにもかかわらず、健一は押入れに入って自分の寝具を
別の高いところへ積んでいった。手伝ってやれない弟妹が、寝具の出し入れに苦労をしないようにとの気配りだったのである。
そういえば、小鳥の餌も頼まれた母が、多忙のために忘れても大丈夫なようにという配慮だろうか、
たっぷりと餌があることを思い出した。
まだある。日頃でも健一は食事の食器は弟妹にも必ず下げさせるのである。
「キャベツの一切れでも、きちんと残菜入れに入れてから洗いボールに入れるんだぞ。
お母さんがそれだけ助かるだろう」と弟妹に時折言うのを聞くのである。
先日、女子高校生に自分の上衣を着せ、雨を防ぎ肩を抱きながら、
お互いにしなだれかかって歩く高校生を見て、嘔吐に似たものを母は感じた。
男生徒が、法で禁じられている自転車に女生徒を乗せペダルを踏む高校生を見ることがある。
一体、男の子の「やさしさ」とは何だろうか。
母は、たくましい男のやさしさをわが子から、さわやかに感じていた。
健一の話が弾む。
健一の湯呑へ、まだ幼い妹が馴れない手つきで茶を注いでいた。
有沢 二夫 著

第13話 老教師

電話のコール音が止まらない。(だれだ、今頃・・・)
定年の近いからだには、もう中学校勤めがつらい。A先生はぶつくさと起きる。
「モシモシ、お元気ですか。佐々木です。」
「ご無沙汰しています。ササキ。大阪です。」
「おう!」
30年前の教え子が、一瞬に浮かび上がる。
佐々木。両親はなく祖母と二人。学習成績は上。
負けん気が強く、教師仲間の評は人によって「生意気だ」または「鋭い」「ファイトがある」と半々。
「先生、すんまへん。長男の奴、高校へ行かないて言うんです。
オヤジだって中学だけのくせに必要ないって、何とか言ってやって下さい。
すがるのは先生しかいないんで・・・
今までお便りもせんと悪う思うてますが、やっと工場を二つ持てるようになりました。」
佐々木。
三年生のはじめから成績がさがり言動も変わった。
いつか問題生徒のリーダー格となりつつあった。
まだ若かったA先生は、本気で心を砕き佐々木の心に入ろうとした。
原因が分かるからだ。両親のいない外国籍。
「差別がなんだ。弱いから負けるんだ。差別をはね返せ、
もっと自分を大切にしろ」
「どうがんばったって、どうにもなりゃしないや」
ふてくされる彼を、泣きながら殴った。宿直の夜は、彼を呼んでは話をした、聞いてやった。
「先生、どんな奴でも・・・数学や英語が分からんでも、本気な先生は分かるんです。愛情は分かるんです。」
こんなことを言うようになった二学期からは、刺すような目の光が和んできた。
新聞配達の傍らの勉強も成果がでてきた。
「先生、ボク高校入試をやっていい」
「そうか、やるか、必ず通るぞ。」
「しかし、ボクどうせ就職だから、入学はできないが」
「いいじゃないか。高校へ合格した自身と誇りを持って胸を張って大阪へ行け」
ぐんぐん成績は向上した。元通りにこぎつけた。
最も難しいと目されるO高校も問題がないと思われた。
アチーブメントテストの成績が来た。
予想以上の文句のない得点に手放しで喜んだ。
A先生は、もちろんO高校へ願書を出した。
卒業して合格発表の日がきた。
掲示が出た。
A先生は、懸命に張り出された生徒達の受験番号をメモした。
歓声と、ため息の時間が過ぎた、ふと我に返ると、彼が虚ろな目で立っていた。
「先生、オレの、オレの番号がない」
「バカ言え、絶対にそんなことがあるもんか」
改めて番号を追った。いきなり後ろから殴りつけられたような気持ちだった。
外国人は、日本で学ぶなというのか。
固い壁に叩きつけたれたショックと怒り。
A先生は佐々木に泣いて謝ったのだった。
「オイ、君のお父さんはな、すばらしい成績で、すばらしい人間だった。
高校だって合格したが事情で就職したのだ。
わたしが証明する。そのお父さんのいう通り高校受けろ」
先生は、いつまでも熱く受話器を握っていた。
有沢 二夫 著

第14話 たった1個のおにぎり

「うわー、すげえや、ジャンボ!」
うわーっとあがった男子の歓声に、遠足の弁当を広げたばかりのT先生は近寄ってみた。
なるほど、ゆうに幼児の頭ほどもあるにぎりめしを隆夫はニコニコと手にしたところだ。
「なーんだ、お前たったおにぎり一個だけか」
友達の遠足の弁当は豪華だ。赤・黄・緑・白と原色が、ぎっしり詰まって、
えび・かまぼこ・玉子焼き・ソーセージ、それに果物と多彩で多いが、
何かワンパターンである。
たしかに、それに比べると隆夫の弁当は、真黒なのり巻きジャンボただ一個、
それでも隆夫はニコニコとおいしそうにかぶりついていた。
「隆夫、何かわけがあるのか」
「へへ・・・母さんの愛情おにぎり」
「?」
T先生には、子どもの頃の思い出があった。
貧しく子どもの多い家の弁当は、ろくな弁当ではなかった。アルミの弁当箱は、「日の丸弁当」の名の下に梅干一個で穴が空いていた。それ以外には塩こぶだけか、たくあんだけぐらいしか記憶がない。
父は、たくあんは玉子焼き、大根はかまぼこと思えというが、そんな落語のようなことが子どもに通用するはずがない。
特に遠足の時など、しつこく母を責めた。
母は悲しげな顔をしていたが、母窮余の一策が大きな一個のおにぎりへと変わった。
その時だけは、母の大奮発ののり巻きで、引き割り麦と七分づきの飯がかくれた。
子ども達は大満足であった。たくあんも、塩こぶも、梅干しも、外から見えなかったし、何といってもジャンボにこめられた、母の手のぬくもりがうれしかったのである。
T先生は、隆夫の母に尋ねてみた。
隆夫の母は言う。
忙しい共働きでは朝も夕も目が廻る。しかし家庭では食べることは中核で、
一家団欒も皆ここからはじまるし、「家風」が作られるのも、食事だという。
貧しくとも分け合い、身を寄せ合って生きていかねばならぬ家庭が、物の豊かさとけじめのない飽食で壊されてはならない。
子どもを育てることは、食を育てること、つまり「食育」だと祖母に教えられたという。
給食のない時の弁当や、遠足の時の弁当もそうだ。
スーパーで、手当たり次第に買い込んできた原色の濃いお惣菜を、詰め込み、詰め合わせれば見た目には美しい。
だが、三、四才の幼稚園児の弁当にすら、固い殻や頭のついた海老をそのまま入れて何の愛情だろうかと母はいう。
しかも一個しか作らないというのは、過不足のないように子どもの食欲と合わせて作るという
母親の自信である。
隆夫のジャンボ、弟の中、妹のバンビと並べるのは楽しい。
中身は、鮭・たらこ・こんぶ・たくあん・梅干し・佃煮と多彩だ。
妹の中には、可愛いサクランボまで入れてやるのだと言う。
「オイ、隆夫こんどは何が入ってたんだ」
「フフフ、ヒ・ミ・ツ」
「いいなー、オレも作ってもらおう。」
T先生は、母のおにぎりをしきりと思っていた。
有沢 二夫 著

第15話 中学生

「あのー」
ためらいがちな小さい声に呼び止められた。振り返ると小さな上気した顔が言った。
「あのー、すみませんが、あれは、どうして止めるんですか」
伸彦の顔と、腕の週番腕章を等分に見やりながら、女の子はやっとこれだけ言った。
その女の子の胸には、真新しい一年生の名札があった。
背を伸ばした伸彦は、換気ファンのスイッチを押した。
「どうも、ありがとう。」
清掃バケツを手にした入学間もないその女の子は、はにかみながらも緊張した頬を、
やっとゆるめた。

反射的に首をすくめた伸彦の向こうへボールは飛んでいった。
「バカ、あぶないじゃないか」
振り返った伸彦のそはへ、息を弾ませた女の子が走ってきた。
「へただな、ボール拾いぐらいしっかりやれんのか」
女の子の顔が、みるみる歪んだ。
ひと月前のあの女の子である。
まだ、だぶついたジャージだがフリーマーの下の脚が、すんなりと可愛い。
その膝小僧は、血がにじんで土で汚れていた。
女の子の歪んだその眸を見ると、伸彦はあわててボールを追ってやった。
(はやく、うまくなれよ)
つぶやきながら投げたボールを、女の子はまた大きく後ろへそらした。
それでもペコリと伸彦へ頭を下げると真っ赤な顔をしてまたボールを追いかけて行った。
黄昏に、さざめきが割れて散った。
急ぎ足になった伸彦に、小さな足音がひとつ追ってきた。
カバンとラケットを重そうに持ったあの女の子である。
(毎日シゴかれて、しかも後始末で一年生の時は大変だったな)
伸彦は、二年前の自分を思い出していた。
(すこしはうまくなったかな)
この間の不器用な女の子を思い出してクスリと笑った。そでに街灯の影は濃い。
女の子は、伸彦との距離をあけまいとするように、懸命について来る。
(何だ。暗くなったのでこわいのか)
その女の子とは、近頃登校途中に、とある横丁から出てくるのによく出会う。
(大丈夫、怖くないさ、ボクについて来いよ)
伸彦は、ゆっくり歩いてやる。女の子の足音はすぐうしろまで来て伸彦の足音に合わせた。
その横丁に来たとき、伸彦は女の子の歩幅に合わせて、その道を曲がってやった。
頬が熱くなった。
送ってやっている姿を見られたら、どう言えばよいのかと思った。
わざと歩幅を広げては、足音が遠のくと歩幅をゆるめた。
「村上さん、アリガト」
うしろで声がした。
門燈に白い顔を照らした女の子がペコリと礼をした。
(知るもんか。送ってやったんじゃないぞ)
伸彦は、熱い頬をおさえて、いきなり走り出していった。
有沢 二夫 著

第16話 ひとりぼっち

思ってもみなかった人垣だ。
きっと、オレが一番最初に就職していくのだから珍しいのだなと思った。
卒業して、まだ五日目である。
だのに見馴れたはずの友達の顔が懐かしいのは、県外へ就職していくのだからだろうか。
(もう、めったに帰れないな)
こう思った時、学級担任の古田先生が近づいたきた。「古田」みな「ブルだ」と呼んだ。
ブル先生の精一杯の笑みが妙に思えた。よく叱られた。
勉強は嫌いだった。騒いではブルに叱られた。
母だけがついて来てくれた。不細工なほど大きなカバンをさげて、
オロオロとついて来たが、ブルがそれを無理に取った。
母は幾度も頭を下げてブルに何かしきりに言っていた。
友達が代わる代わる「がんばれよ、元気でな」と同じことばかりを繰り返す。
(いいなあ、お前ら、親のスネかじりで・・・)
そんな高校生になる奴よりも、いっしょに喋り合った就職生の方が身近なのに、
わずか数人が集まって隅の方で不安そうにオレを見ている。
(バカ、心配するな、泣くもんか)
いつも見なれているはずの駅お小便小僧が、いつまでも目の裏に、張り付いた。
4番ホーム
職安の係りの者が、うるさいくらいに指定列車番号をいう。
(Y子も来てくれたのか)
好きだったY子が、四、五人と固まって笑っている。
オレはやっと別れて行くさびしさが大きなかたまりとなって胸の中から押し上がってきた。
(Y子、返事だけでいいから手紙くれよな、オレ、一生忘れないぜ)
どうせ、相手にしてもらえないだろうと、学校の時は、手紙はおろか派なしかけたこともない。
ブルが、何を思ったのか、オレを引きずり出してみんなに円陣を作らせた。
ブルが大きな声で校歌を歌い始めた。調子外れのブルの歌をはじめて聴いたが、だれも笑わなかった。
皆も歌った。オレはゆっくり一人ひとりの顔を見た。はじめて何だか晴れがましい気持ちになってきた。
照れくさい。輪の外へ出ようとするオレを、ブルが引き戻した。
ブルの手があたたかいことをオレは、はじめて知った。
皆は、だんだん大きな声で真剣に歌ってくれるようになった。その一人の思いが、目の前を横切っては消えた。
列車が入った。
添乗してきた職安の係員に引きずり込まれた。オレはウロウロと席を探した。
指定された席に荷物を置いた時、窓ガラスを叩く鈍い音がした。
窓に友達の顔が重なった、
ブルの顔が叫んだ、母の顔が遠くで歪んだ。
30秒。
呆気ない停車だった。友達の顔が必死で追ってきたが、
見えない力で後ろへ引き戻され、消えた。
時間が止まった。
車中の熱気で一度に汗が吹き出した。それが喉にたまった。
ポロポロと涙がこぼれた。泣くまいと思うと余計に喉が詰まった。
オレは、はじめて泣いた。わけのわかなぬ涙が、手の甲にあふれ続けた。
有沢 二夫 著

第17話 贈られた花束

その日。見慣れたはずの校門が違って見えた。
通い馴れたはずなのに、妙に面映ゆく思えた。
ある時は、ツッパって肩を怒らせ、ある日は先生に叱られ、
反抗して逃げ帰った校門なのに、その日だけは違って見えた。
中学校三ヵ年
それは、喜びと悲しみ。劣等感と優越感の両極をゆれ動いた三年間であった。
小学校三年頃からの両親の不仲は、学習を遅らせてしまったし、
その遅れは中学校でますます学習意欲を失わせてしまった。
その劣等感は、さびしい仲間だけのツッパリとなって辛うじて自分を支えていた。
しかし三年生となり、進路決定の時期を迎えるようになると、やりきれない劣等感と虚無感にさいなまれた。
「就職」ということばが、みじめでどうしても口に出なかった。
そのくせ「進学」ともいえぬもどかしさが母と争い、担任教師に反抗させ、余計に自分をみじめにさせた。
「お前、こんな問題がまだ分からんで、入学テストどうするんだ」
授業の時に先生の他の生徒を励ます善意のことばですら、それを隣で聞く彼には堪え難く思えるのだった。
「病弱な者ほど一番健康を欲する」ということわざのように、勉強のできない者ほど、
ほんとうは最も勉強がしたいとおもっているはずなのだが、意志の弱さと自己への甘さがツッパリへと走らせ自分をごまかしていた。
自分を納得させることほど難しいことはない。
やっと勉強と就職の両立だと自分を説得して県外の調理学校へ入学した。
だが、捨てきれぬ自己への甘さは通用するすべもない。包丁よりも皿や鍋洗いだけのほうが多く、粋なねじり鉢巻に高下駄の板前姿とはほど遠く、二ヶ月過ぎた後、だれにも知られないように帰ってきた。
六月になった。他の就職生よりもはるかに遅く日割計算のわずかな給料をもらった。
食品を扱うこととは全く違い、機械油が爪の間に染み込んだ手に、生まれてはじめての給料を手にした。
想像以上に、はるかにつらい勤務の毎日だが、
母にいくらかでもやれると思い、いとおしく、また胸のふくらむ思いでもあった。
なぜか、急に学校が懐かしく思えた。転職を気にかけて手紙をくれた先生に会いたいと思った。転職を叱られてもいいと思った。むしろ久しぶりに、その弱虫を叱られたいとさえ思うのであった。
卒業すると、なぜか厳しい学級担任のやさしさだけが心に残った。
校長室で叱られたことまでが遠く戻ってこないものに思えて、急に学校を訪れる気持ちにさせた。
校門から職員室までが、こんなに遠いとは思わなかった。
後輩が、彼の伸びかけた髪や服装を興味深そうに眺め、彼の手にした花束を見ては何かささやき合っていた。
やっと顔見知りの後輩に頼んで学級担任に会えた。
二つの花束と手紙を託した。
「どうした、折角きたのに、ゆっくりしていけよ。」
学級担任の声を背に校門へ向かって走った。
担任の先生の顔がこんなにうれしいとは思わなかった。
校門の木々の葉が、若葉を終って濃い。
その母校。改築のために、はや二ヶ月で姿を消す。
有沢 二夫 著

第18話 家庭訪問

梅雨には、まだ早い季節なのに、これがなたね梅雨というのだろうか。
また音もなく振り出した小雨は、F先生のレインコートを重く濡らしていった。
「しまったな、荷物にはなったが、やはり傘は持ってくるべきだったな」
日頃、生徒には横着せずに振りそうな時には、傘ぐらい用意するのだと言い続けている自分が腹立たしかった。
腹立たしくなるのも無理はない。出かけに学校で思わぬ急用に手間取って、
家庭訪問はまだ四軒も残っていた。しかも、出かけにバイクの故障で、結局は歩く破目になった。
晩春とはいえ、雨空もあってあたりの色が沈み出した。
「きょうは、八時を過ぎるな」
帰り道のコートのべたつきを思うだけでも憂鬱だったし、泥はもう長靴の上まではね上がっている。
けぶるような雨とはいえ、すでに膝頭のあたりは下まで透っているズボンを気にしながら、F先生は淳一の家を訪れた。
母と小学校5年になる妹との三人暮らし、父は八年前に死んでいない。
『東海道』
F先生は、学生時代にこんなニックネームのあった友人を思い出していた。
「東海道五十三ツギ」
彼は赤貧の中に育った。だからいつもツギだらけの学生服を着ていたが、
すこしもそれを恥ずかしがらなかった。
いや、むしろ胸を張って平然としていた。秀才だった・・・
「先生、お金が大事だというけれど、お金というものは使ったらなくなります。
それにつれて心も貧しくなります。
使えば使うほど増える学問が、ほんとうの財産です。だから・・・」
毎日の仕事で日焼けした淳一の母は、こう言って皓い歯を見せて微笑んだ。
大きくうなずいたF先生の前へ、妹が灰皿を置くと、はにかんで逃げていった。
粗末な古い型の大きな灰皿の中には、もみじの小さな押し葉が透き通った水に浮かんでゆれていた。
F先生は、タバコの灰を落とすのも忘れて、しばらくはじっとその小さな三枚の色を見つめていた。
それは、まるでこの家の親子を現しているかのように思えるのだった。
清々しい思いで、母と妹に送られたF先生は、狭い玄関で笑って立っている淳一に迎えられた。
「先生、余分の傘はこれしかないんです。この傘、破れ目があって恥ずかしいけどその破れから前が見えるだろ、
危なくなくていいんです。」
屈託のない淳一のことばにF先生は、五十三ツギの服で胸を張って歩いた『東海道』の面影に会ったような気がした。
F先生は、破れた傘をさして、心もち胸を張るようにして歩いて行った。
そして久しぶりに「東海道」に手紙を書いてみようと思うのだった。
その長靴は、いつの間にかきれいに泥が落とされているのも知らずに・・・。
有沢 二夫 著